Deep Rever異なる背景を持った5人の人物が、インドを旅してガンジス川を前にした時、それぞれが抱えている業をどのように昇華させるか・・・。オムニバス的でありながら、それらが一体となって混沌としたガンジス川に流れていく。信仰について考えさせられる、遠藤周作の晩年の作品です。

この作品の全体を総括するような決め台詞と言いましょうか、遠藤周作氏が書き上げたこの『深い河』という世界のまとめはこの部分は、ここではないでしょうか。
5人の主人公の一人、大津という神父が好きだというマハトマ・ガンジーの言葉です。

「すべての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。すべての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ」

「様々な宗教があるが、それらはみな同一の地点に集まり通ずる様々な道である。同じ目的地に到着する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか」

宗教という体系化された観念でなくても、それぞれの人が体験する神秘は様々です。
大自然を前にした畏敬の念、夢の中での亡くなった人の助言、パワースポットでの充足感、理不尽と思える運命性、困難に対する祈り、導かれたような偶然の出会い、そういった人智を超えたものを感じるようなことは、多かれ少なかれ経験したことのある人が多いと思います。

『深い河』の5人の主人公たちの場合はどうでしょうか。各々がどのように神秘に出会うのか、ポイントを簡単にまとめてみます。
ここではそれぞれが抱えている虚しさや心の傷の源を「業」と呼ぶことにします。

1.磯部の場合

神秘との出会い 死に際の妻に、自分の生まれ変わりを必ず見つけてくれと懇願される。
インドにて 生まれ変わりの妻を探す過程で、妻との特別な結びつきを自覚し、自分自身の人生を見つめ直す。
生前、ぞんざいに扱ってきた妻への後ろめたさ。

2.美津子の場合

神秘との出会い 神を信じる大津との出会い。その揺るぎない大津の確信が一体何なのかに捕らわれる。
インドにて 神という概念に限定されているものではなく、大きな永遠なるものの存在を感じはじめる。
原因の分からぬ空虚感。その空虚感を埋めるための愚行。愛が分からない。

3.沼田の場合

神秘との出会い 動物との心のふれあい。
インドにて 人間と自然の関わりにおいて美しい側面ばかりに心を留めていたが、矛盾を含むありのままの様相が流れ込む。
飼っていた九官鳥の死が自分の身代わりであったのではないかと感じている。また、自分がそれまでに別れなくてはならなかった動物との繋がりの断絶に対する寂しさ。

4.木口の場合

神秘との出会い 戦地での壮絶な経験に今む苦しむ戦友が、ボランティアのガストンの言葉に心救われる様子を見たこと。
インドにて 病気になり、熱で朦朧とする中で、自分なりの転生の意味に辿り着く。
戦地での体験。亡くなっていった仲間たちの魂。

5.大津の場合

神秘との出会い 美津子に弄ばれ捨てられたことで、神の愛に出会った。
インドにて 神学校で批判された「神は色々な顔を持っておられる」という東洋の汎神論的な神の捉え方に迷いがなくなり、貧しきものに身をささげる。
日本文化の中で育った自分と、西洋文化を背景とするキリスト教との間にある、神という概念の乖離。

最後の大津のケースは、「日本人とキリスト教」という遠藤周作が長年にわたって模索していたテーマに対する答えなのでしょう。
物語の最後、瀕死の重傷を負った大津は、「これで‥‥‥いい。僕の人生は‥‥‥これでいい」と言い、自分の人生に全くの悔いも迷いもありません。答えを見つけてしまった人の無執着性を感じます。

この作品では、ある経験や、至った思いなどがペアになって語られている部分が多いように思われます。異なる経験を持つ人間が、違った道を通って同じ思いに至るということを表現されているのだと思いますが、ここで、若いキリスト教の神父の大津と、年老いた仏教徒の木口が同じようなことを言っている部分を挙げてみたいと思います。

まず、二人とも、善悪不二を述べています。

大津 「ぼくはここの人たちのように善と悪とを、あまりにはっきり区別できません。善のなかにも悪がひそみ、悪のなかにも良いことが潜在していると思います。だからこそ神は手品を使えるんです。ぼくの罪さえ活用して、救いに向けてくださった」

木口 「仏教の言う善悪不二でして、人間のやる所業には絶対に正しいと言えることはない。逆にどんな悪行にも救いの種が潜んでる。何事も善と悪とが背中あわせになっていて、それを刀で割ったように分けてはならぬ」

そして、転生についても近い考えを持っています。

弟子たちに裏切られたキリストは、それでも彼らを愛したという話に続いて、大津はこう言っています。(ここで玉ねぎとは、キリストのことです。)

大津 「以来、玉ねぎは彼等の心のなかに生きつづけました。玉ねぎは死にました。でも弟子たちの中に転生したのです」

一方、木口は、戦場で自分を救った戦友がずっと心に苦難を抱えたおり、その戦友が入院した際にボランティアのガストンが慈悲の心で寄り添ったことを振り返り、こう言います。

木口 「ガストンさんと戦友とは背中合わせだと私は思いました。戦友は私を助けるために肉を食うた。肉を食うたのは怖しいが、しかしそれは慈悲の気持ちだったゆえ許されるとガストンさんが言うている夢です。転生とは、このことじゃないでしょうかね」

二人とも、愛や慈悲の心が人の心の中で生きることを「転生」と呼んでいます。
全く違った人生を歩んできた二人が、ことなる宗教を手掛かりに同じゴールに到着する、先に記したマハトマ・ガンジーの言葉そのものですね。

5人の主人公たちは、みんな日本人なんですが、それぞれ海外で大きな経験だったり印を見つけたりしています。
磯部はアメリカ・ワシントン、美津子と大津はフランス、沼田は中国・満州、木口はビルマ。
読者である私たちは、もう、世界中あちこちに連れていかれて、長い旅の後、最終的にみんなの人生がインドのガンジス川に流れ込んでいく、という壮大な構成ですね。

私はどこでどんな印を見つけるのだろう、自分の中にどんな神秘を抱えているだろう、私がガンジス川を前にした時、何を感じるだろう、という思いに誘われました。
いつかインドへ行ってみたいですね。