好きな音楽、読書、朝の空といつもの缶コーヒー、モミジの苗木、木漏れ日、トイレ掃除という自分の仕事への誇りと満足感、仕事上がりの銭湯、いつもの店での一杯・・・。
主人公・平山(役所広司)の送る生活は、「足るを知る者は富む」という老子の言葉を体現しているような生き方です。日々のルーティンの中での緩やかで温かな人とのつながり。淡々と流れるような日常の時間の中の小さな漣のような変化。その小さな波動の煌めきを捉えて味わうことのできる感受性ってなんて素敵なんだろうと、この映画の世界に引き込まれました。
質素で満ち足りた平山の生活を、前半はドキュメンタリータッチで見せられます。映画が進むにつれ、なぜ彼は一人なのだろうか、なぜ彼はトイレ掃除を生業にしているのだろうか、なぜ彼は「足るを知る」を体現できているのだろうか、といういろんな疑問が浮かぶのですが、言葉の少ない平山がそれらを語るような場面はありません。ただ、突然やってくる姪の存在、姪を迎えに来る平山の妹の存在で、彼の人生において辛い日々もあったのだということが示唆されています。彼らとの再会で、漣であった風景が、大きな波になって平山の心を揺さぶります。もしかしたら彼は、以前、心の乱されることの多いストレスフルな生活をしてきて、それに疲れ果てるような経験をしたからこそ、日常に溢れる穏やかな美しさに心を留められる現在の「足るを知る」の境地に至ることができたのかな、なんて、私の中にも色々な想像が膨らみました。
このような生き方に憧れを抱く人は多いかもしれませんが、そのような境地に至るのは簡単ではないのだということも、私たちは自分自身を振り返ってみれば感じるところですよね。人生山あり谷ありですが、日常に満ちる光の漣を今よりもうちょっとだけ意識して生きるぐらいは、すぐにでもできると思います。そういうことの積み重ねで、少しずつ見えなくなっていた豊かさをより認識できるようになるのかもしれません。
ハイデザインの公共トイレ、下町、首都高、墨田川、スカイツリー、神社、銭湯、居酒屋と、平山を包む風景として、東京の飾らない情景も味わい深いのですが、ヴィン・ヴェンダー監督の目を通して、東京という街の魅力がより引き出されたような映像に仕上がっているなぁと感じました。
そして何より、自分を語らない平山の心中を、演技によって魅せる役所広司さんの表現力、本当に素晴らしかったです!