刺激的な映画ですねー。ドキュメンタリーチックな描写で、主人公、珠のまなざしが、映画を見ている自分と一緒になって、「理由なき尾行」という行為にはまっていきます。

まず、あらすじから・・・

「どうして人間は存在するのか、何のために生きるのか・・・そういうこと考え始めると、胸の中がもやもやするばかりで・・・」
大学院で哲学を学ぶ白石珠(門脇麦)は、修士論文を書くにあたって研究方法を決められず、担当の篠原教授(リリー・フランキー)に相談します。教授は、無作為に選んだ対象者を尾行して記録する「哲学的尾行」を勧めます。珠は初め躊躇しますが、結局、近所に住む石坂(長谷川博己)を尾行することに。他人の生活を覗くという行為に夢中になるに連れて、同棲中の恋人、卓也(菅田将暉)との仲は不安定になっていって・・・

原作(小池真理子 著)は読んでいませんが、映画は随分脚色しているようですね。結末も異なるようだし、なにより、映画では篠原教授の存在がとても大きくなっています。なんだったら、映画に関しては、珠の目を通して見た篠原教授の物語といってもいいんじゃないのかと思うぐらいです。

『二重生活』と言うと、一般的には、「裏の顔がある」とか「秘密がある」などという事なのかもしれません。

だけど、私は、この物語においてのテーマは、これじゃないかと感じています。
「主観する生活」(自分が生きていると思っている人生)
「客観される生活」(観察され、他人に規定される人生)
この二つの生を重ね合わせ、そこにある隔たりを目の当たりにした時、そのズレをどのように引き受けるのか。

これって、私たちの日常生活でも、絶えず突き付けられているものですよね。人と関わり合って生きている限り、他人の自分への評価みたいなものに、向き合わなくてはいけません。他人に規定される自分、そこに葛藤が生まれるし、ましてや、尾行され、記録を付けられ、考察され、論文になり、それを突き付けられるとなると、そこに生まれる感情は過酷なものになるんでしょう。ジャン=ポール・サルトルの言う「対他存在」、つまり「自分の意識と他者の意識の相克」というのが、頭を過りました。

珠が尾行をする対象者は二人。
一人目は、金持ちでエリート編集者の石坂、二人目は堅物の哲学者、篠原教授。
この二人、「主観」と「客観」、二重の生を突き付けられた時の答えの出し方が対照的です。

珠のまなざしを跳ね返し、逆に鋭く見返し、珠のことを規定し返す石坂。
珠のまなざしを自ら導き入れ、完全に解き放たれる篠原教授。

最終的に珠の論文に、篠原教授は高い評価を与えるのですが、論文の締めくくりがこれです。

“平凡で穏やかで裏切りも隠し事も嘘もない、ただ公平な愛だけで満たされる人生などない。
人は苦しみからも逃れられない。
ほんの少し、その苦しみを軽くしてくれるもの、それが秘密である。
理由のない尾行とは、自分を他人の場所に置き換えること。
すなわち互いの人生、情熱、意志を知ること。
それは人間が人間にとって、かけがえのない存在になる、おそらく唯一の方法ではないだろうか。”

この言葉の意味を、繰り返し考えてみるのも面白いな、と思いました。

同棲していた卓也は、珠の事をかけがえのない存在として、温かなまなざしを常に送っていたのに、それに珠が最後まで気が付けなかったことが、少し寂しいところですね・・・。卓也が描いた珠の似顔絵も「客観される自分」ということだと思います。そこに目を留めることができていたら、なんて思いました。失わないと気付けない、やるせませんが、そういうものなんでしょうね。

映画の中では様々なまなざしが行き交います。
珠⇒石坂、石坂の妻⇒石坂、石坂⇒珠、卓也⇒珠、珠⇒篠原教授、防犯カメラ(管理人)⇒近所の人、などなど

そして最後に、珠⇒観客、珠は映画を見ている私たちに、まなざしを投げかけます。
見ていたと思っていた私たちを、見返す感じで、終わります。
「主観」的に「見ている私」が急に「客観」され、はっとさせられました。

「主観」だけで生きているような人はイタい感じがするし、「客観」ばかり気にしている人は自分がない感じがするし、上手くバランスを取れるのが一番なんでしょうが、まずは、自分は、どのような「主観」と「客観」の狭間に立っているのかということを考えてみることで、自分の在り方というものが分かる手掛かりになるんじゃないかな、なんて思いました。

カテゴリー: Film