「あいちトリエンナーレ2019年」の「表現の不自由展・その後」と題した企画展が3日で中止された件、ここ数日ニュースになっていますね。私も気になって、あちこちの報道、見ていました。どの記事を読んでも、まあー、新聞各社の思想っていうものがはっきりと表に打ち出されていて、幅広い解釈の出来るアートというものの性質ゆえなんですかね。

私など単純で、余りこういうことを考えたこともなかったこともあり、「こんな展示はけしからん!」という論調の記事を読めば、やっぱりけしからんのかな・・・と思ってしまうし、逆に「中止するなんてありえない!」という主張に触れれば、あ、やっぱりそうなのかな・・・なんて思い直したり。報道で感じ方、随分違うな、なんて。

新聞でもテレビニュースでも、平和の少女像の写真がぼーんって出されて、それでインパクトが大きいんですが、そもそも、「表現の不自由展・その後」という展示が、どのようなものであったのか、ということが、あまり詳しく報道されていない感じがします。
そこら辺が気になり、公式サイトに行ってみると全作品の紹介が掲載されていました。

表現の不自由展・その後 – 出展作家

実際に訪れた方のレポート、アーティストのインタビュー記事なんかも合わせて読んでみたのですが、報道で伝えられることから私が想像していたものとは、少しズレが感じられ、とても興味深い展示だったのだなと思いました。

それぞれの作品には、その作品がどのような経緯を辿ってきたのかという資料が開示されています。どのような「検閲」(と呼んでいいのか分かりませんが)を受けて、社会からどのような批判を受けて、その後、どうなったのか。裁判になって、アーティスト側が勝訴した場合も敗訴した場合もあります。図録が全て焼却された場合もあります。作品そのものがどうこうということよりも、その作品の経緯に触れて、この社会に流れるタブーに目を向けるというのが、この展示のテーマであり、それはとても有意義なことなのではと思いました。

ただ、この展示では、「表現の不自由」を謳っているけど、扱っているのは「政治的」なものが主流だったので、「社会的」なもの(これは少しはあったけど)とか「性的」なものとか、より幅広い類を扱えば、タブー一般を視覚化する感じになって、企画が持続しやすかったんじゃないかな、なんて思います。
数年前に逮捕されて話題になった、ろくでなし子さんの女性器の作品とか。日本には春画という伝統があるのにね。性器ってそんなに有害なんですかね。
今回の出展していた岡本光博さんなんかは、政治的なものだけでなく、VS資本主義みたいな作品も多くあって、そちらも叩かれていたみたいだし、そういう部分扱えば、幅が広がったんじゃないかな、
なんて、キュレーター目線でタブーそのものに着目することを色々考えてみました。

「新しい視点」を提示することがアートの本懐であり、そこから受け取り側に新たな可能性が生まれてゆくのだろうけれど、公共の美術館などで「表現の自由」の名の元、誰かが不快に感じる自由は、やはり難しいんでしょうか。
でも方法は色々あるんだと思います。アーティスト側が誤解のないように、作品をかみ砕いて説明することで、上手くいった場合も実際あるようだし。解釈の幅が広いアートで、特に政治的なメッセージを伝えるには、丁寧な「解説」というものが不可欠なような気がします。報道機関や評論家にも、自分の思想の主張の為に、アーティストの意志に反して、作品を道具にするような紹介の仕方をしないでほしいですね。

タブーがどうしてタブーであるのか、それを考えていくことは、自分を包む社会を知るうえで、一つの鍵であるわけで、もうちょっといい方法でこういう展示がまた行われたらいいな。と思いました。

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