久々に『アマデウス』を観ました。やっぱり名作ですよねぇ。

宮廷作曲家だったアントニオ・サリエリが、若くして亡くなった天才音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを回想し、彼の見たモーツァルトが描かれていきます。

圧倒的な音楽的才能を持つモーツァルト。その天才的な能力に、サリエリは「憧れ」と同時に強い「嫉妬」を抱き葛藤するのですが、そういった真逆の感情は誰の心の中にも少なからずあるものだと思います。この映画を見て、サリエリの心の葛藤に切ない気持ちになった人も多いのではないでしょうか。

サリエリは、自分では天に届くような音楽は書けないけど、天才を見分ける才能は持ち合わせてしまっていて、誰よりもモーツァルトの凄さが分かってしまうのですね。そのモーツァルトときたら、謙虚さに欠け放蕩的。音楽の才を取ってしまったら、どうしようもないような若者で、真面目に生きてきたサリエリは不公平感でいっぱいになります。

この映画は、「愛憎」をテーマとしていて、その視点で語られることが多いと思いますが、私は、サリエリの中にある「ファザーコンプレックス」という部分に注目して見るのも面白いのではないかと思います。
(あくまで、”サリエリ”のです。”モーツァルト”のではありませんよ。)

映画の前半、サリエリの語りはじめの部分で、彼は自分の父と、モーツァルトの父を比較しています。

サリエリの父は商売人で、音楽にまったく価値を与えない人で、音楽家になりたいというサリエリの願いにも聞く耳を持ちませんでした。文化的なものに興味のない父を、サリエリは軽蔑していたような口調で語ります。
一方、モーツァルトの父は、息子の才能を早くに見抜いて英才教育を施し、息子を導く存在でした。幼い頃から有名人だったモーツァルトの噂を聞いて、サリエリは、モーツァルトの才能よりなにより、そういう父を持っているということが妬ましかった、と語っています。

「父」というものを、サリエリはまず語っているのです。
サリエリにとっての「父」とは何なのでしょう?
サリエリの心の苦しみの根源は、そこにあるのではないかと思うのです。モーツァルトのような強い光を前にして、生まれてくる愛憎、自分で抑えきれないぐらいのその愛憎が生まれてしまう原因こそ「父」であるのだと。

サリエリの父は、サリエリの少年時代に、”幸運にも”、亡くなってしましました。それによってサリエリは、音楽家への道を自由に歩むことができるようになりました。サリエリは、ある日突然自由になってしまったので、一般的に青年期に経験する父からの旅立ちのような葛藤を経験してこなかったとも言えるかと思います。そして、ぽっかり空いた「父」の座には、そのような幸運を与えてくれた「神」を据えて生きてきたのだと思います。「神」は人間ではないから、常に理想の偉大な存在で、幻滅させられることなく、サリエリの努力を常に評価し、「神」の導きによって、サリエリは宮廷作曲家という地位まで登ってくることができました。

ところが、天才モーツァルトがサリエリの前に現れ、本物の才能というものに触れることで、サリエリの得た心の栄光は一瞬で消え去ってしまいます。サリエリに一度与えたものを奪い去った「神」の理不尽さに、サリエリの「神」つまり「父」への信頼は揺らいでしまうのです。

普通であれば、少年時代、青年時代を通して、父も一人の人間であると理解し、失望したり、尊敬したり、軽蔑したり、共感したりして、父とのよい距離感を築いていくものなんでしょうが、サリエリはその大人への禊を通過しておらず、しかも、長年、彼の父は「神」なもんですから、ほどほどの距離感なんていうのも難しく、絶対的「信頼」か、もしくは「憎悪」かのどちらかなのでしょう。

神という父の導きを失ったサリエリに寛容さはなくなり、モーツァルトへの「愛憎」も抑えることができません。
告白をしている神父に対して、サリエリはこう言っています。「神は、愛する者の命を奪い、凡庸な者には僅かな栄光も与えはしなかった。神はモーツァルトを殺し、私に責め苦を与えた。32年間も私は苦しみ抜いてきた。自分の音楽が忘れられていく。だが、彼は・・・」
なんだか、自立できていない駄々っ子みたいですね。全て「神」である「父」の性にしています。

モーツァルトの父が亡くなった頃、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』にが発表されました。これを観ると、サリエリは、モーツァルトは父の影に取りつかれているに違いない、と確信します。オペラの中では、亡霊の騎士が現れ、放蕩を尽くしたドン・ジョヴァンニを地獄へと引きずり込むのです。それは、モーツァルトと父の姿なのだと。
ただこれは、サリエリが思っているだけで、モーツァルト本人が、父の影に悩んでるんだよねー、などと、映画の中では一言も言っていません。実際モーツァルトがどうであったかは分からないけれど、ファザーコンプレックスを抱えているサリエリにはそう思えて当然だと思います。放蕩息子を罰しに来る父・・・。これをサリエリ自身に当てはめれば、愛憎でモーツァルトを翻弄したことを、「父」である「神」が罰する訳です。実際、サリエリは、精神を病み、自殺を図るほど苦しむのだから。

という、全て私の勝手な解釈ですが、サリエリの中のファザーコンプレックスを見つめてみるのも面白いと思いませんか?

それはさておき、この映画は当然ながら音楽が素晴らしいですよね。『魔笛』の部分なんて、もうちょっとオペラ、見ていたいなーなんて気持ちになりました。

病床のモーツァルトをサリエリが助けて、『レクイエム』を書いていく場面も見ものですね。(↑の写真の場面です。)
モーツァルトの頭の中ではすでに全てのハーモニーが出来上がっているのですが、それを一つ一つ書き出していくんです。
コーラスのバスを書き出し、そこにテノールが乗っかり、オーケストラの楽器が一つ一つ重ねられ、曲に厚みが出ていく・・・。モーツァルトの音楽が形になっていく過程に、譜面を書いているサリエリと一緒に、見ているこちらも一緒に高ぶってしまう感じです。

ああ、音楽って素晴らしい、って何度見ても感動してしまう、素敵な映画です。
しばらくモーツァルトの曲たちが頭の中を木霊してしまいそうです。

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