東京ミッドタウンのサントリー美術館で開催されている『遊びの流儀 遊楽図の系譜』という企画展に行ってきました。

2019年8月18日まで。もうすぐお終い。
遊びの流儀 遊楽図の系譜

この世のあらゆる楽しみごとに興じる人々が描かれた「遊楽図屏風」。
①邸内遊楽、②野外遊楽と祭礼行事、③舞踊・ファッションと、17世紀前後の遊楽図が3つの系譜をまとめられ、実際の遊び道具(双六盤、カルタなど)と合わせて、遊びの変遷を辿る展示です。

ゲームに熱狂したり、飲んで、歌って、踊って、見世物やお洒落を楽しんだり、形は違えど今と根本は変わらないな、なんて思う反面、かつて遊びって、季節や行事とずっと深く結びついていたんだな、とも思いました。

「遊びをせんとや生まれけむ」という『梁塵秘抄』の有名な一節が、展覧会場入ってすぐのところに掲げられていましたが、昔の人の「遊び」という概念は、今の私たちが思い描く「遊び」といくらか違っていたのだと思います。古語の「遊ぶ」のニュアンスも多少違うようだし、「遊び」の語源を調べてみると、「神をもてなすため、あるいは神とともに人間が楽しむための神事」となっています。今では神が消えて「人間が楽しむ」だけ、もしくは神の役割は何者かに入れ替わったのかもしれません。

この展覧会を見ていて、「なんで人は遊ぶんだろう?そもそも遊びってなんなんだろう?」という疑問でいっぱいになりました。自分の中の疑問をまとめてみると、この3つかと思います。
・遊びとは(定義が知りたい)
・なんで楽しく感じるのか
・遊びの効果

あちこち見ていたのですが、東洋大学の小川純生さんの研究論文、とても腑に落ちました。参考にさせて頂きました!
遊び概念 -面白さの根拠-

≪ 遊びの定義 ≫

学者によって多少違いがありますが、J.ホイジンガの論考がクラシカルな位置づけのようです。

“遊びとは、ある定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは、緊張と歓びの感情を伴い、またこれは「日常生活」とは「別のもの」という意識に裏づけられている”(ヨハン・ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス』1938年)

≪ 面白さはどこから ≫

遊びの本質である「面白さ」がどこから来るのかについては、 M.チクセントミハイの「フロー理論」が興味深かったです。

“フローとは、全人的に行為に没入している時に人が感じる包括的感覚である”
(ミハイ・チクセントミハイ著『楽しみの社会学』2000年)

何かに没頭している人は、周りが見えないぐらい集中していて、自分が自分であるという意識もなくなり、時間はあっという間に流れ去り、そこに人は面白さを感じるということです。
フロー状態(没入状態)は、仕事に夢中になるとか、勉強に没頭するなど、行為と意識が融合できるように刺激領域を限定するなどして、日常の中に楽しさを経験できる人もいます。遊びは、人がフロー状態へ入るための外的手続をそろえて、そこに面白さを感じるように作られたシステムということのようです。
大切なのは、行為者にとって適切な情報負荷で、それが大きすぎると不安を感じ、小さすぎると退屈に感じます。この情報負荷がぴったりの時、人はフロー状態に入りやすくなります。これは経験上、なんとなく分かりますね。

≪ 遊びの効果 ≫

リラックスとかリフレッシュとか、色々あると思いますが、S.ブラウンのこれ、いいですね。

“セレンディピティに出会う瞬間をもっとも多く生み出し、変則的な出来事を呼び込む心の状態は、遊びの状態”
(スチュワート・ブラウン著『Play』2013年)

セレンディピティ:思わぬもの、貴重なものを偶然発見すること、あるいはその能力

「フロー状態」になると自分が自分であることも見えなくなるって、ある部分では瞑想に近い感覚にも思えますが、普段感じることのできない自身の深層の能力まで利用でき、「セレンディピティ」を生み出してくれるということ、と私の中では納得しました。

結論として、貴重な偶然の発見を求めて、いっぱい遊んで楽しく過ごそうと思いました。
(こんなんでいいのか分かりませんが 笑)

だいぶそれましたが、『遊びの流儀 遊楽図の系譜』の動画です。
「遊ぶ」という目的のなくなった遊び道具たち、眠っているみたいでとても美しく、触れて目覚めさせたい気持ちになりました。
絵画の中の遊ぶ人たちに、遠い時間と空間へ誘れました。

カテゴリー: Art