ヨーロッパの美術館を巡っていると、ギリシャ神話に出てくる両性具有の神、ヘルマプロディートスをモチーフにした作品に出くわすことがあります。全体的には美しい女性のような姿なのですが、男性器を持ち合わせていて、特有の艶めかしさがあります。

写真は、パリのルーブル美術館の『眠れるヘルマプロディートス』です。ベルニーニ作の大理石のマットレスが後付けされ、美女とも美少年ともつかぬ姿のこの神様のお昼寝を演出しています。ヘルマプロディートスの彫刻の中では一番知られた作品かと思います。

ヘルマプロディートスはなぜ両性具有なのでしょう?
ギリシャ神話ではこう語られています。

ヘルマプロディートスは、元々は美少年の姿をした男神でした。旅の途中、水浴びをしようと泉に立ち寄った時のことです。その泉の精サルマキスは、ヘルマプロディートスの美しさに欲情して、彼を誘惑しようと試みました。まあ、あっけなくフラれてしまうのですが・・・でも、サルマキスどうしても諦めきれません。なので、一度は立ち去るフリをして、木陰に隠れて、ヘルマプロディートスが服を脱いでいるところを覗き見していました。そして、思い余って飛び出していって、彼を強姦してしまったのです。人間の世界だったら犯罪レベルですが、ここは神話の世界、サルマキスが、「このまま彼と私を一緒にしてください」と神々にお願いしたところ、二人の身体は融合して、両性具有となったそうです。

酷い話ですね。
ヘルマプロディートス的には超不本意だし、サルマキスの方も、無理やり感、自分勝手感、すごいです。
身体は融合したものの、両者の間の心の葛藤というものは、どのようになったのだろう・・・などと思ってしまいます。

この神話が、一人の人間の心の中のエネルギーの流れの例えなら、ユング心理学の言う所のアニマ・アニムスの働きとして捉えることもできるんじゃないか、と思い、調べてみると、「心理的両性具有」という定義があるんですね。一人の人間の中に、男性的な特性と、女性的な特性が存在し、補完し合っているというような概念のようです。
(両性愛とか全性愛、生物学的な半陰陽ということではありません。)


両性具有というと、プラトンの『饗宴』の中にも、両性具有の人間の元型、アンドロギュノスというのが登場します。
錬金術の思想では、男女が統合して完全体になったアンドロギュノスは究極の真理とされ、錬金術の写本にはこんな挿絵が描かれています。

なんか、強そうですね。憂鬱そうなヘルマプロディートスとは大違いです。

この二者の何が違うのか。

ヘルマプロディートス ⇒ 男女が融合、未分化
アンドロギュノス ⇒ 男女が結合、分化

とのことで、ユング博士曰く、アンドロギュノスは、男女の原理がそれぞれの特徴を同化することなく結びついて、バランスを保った状態であり、理想だということです。
確かにこの絵を見ても、「調和」を感じるし、心的困難に立ち向かえる「強さ」みたいのはありますよね。

でも、理想ってなんなんでしょう。心が健全であることなんでしょうかね。
確かに心が健全であれば、穏やかに過ごすことは出来ますでしょうけど。

だけど、私はヘルマプロディートスの方が、やはり魅力的だと思うのです。
その存在が芸術そのものの化身みたいに思えます。
芸術というものは、未分化の混沌の中から、新たな分化を生み出す作業であり、きっとそこには痛みや葛藤を伴うものなの。ヘルマプロディートスの心の中で、ぐるぐると激しく渦のようにだったり、少し穏やかになったり、また激しく暴れまわったりしている苦しみの中から、まだ見えないけど、何か新しいものが生まれてくる予感や前兆のようなものを感じます。

完璧なものは美しいでしょう。
でも、完璧でないもの中にある、葛藤の尊さ、過程に見る個人の可能性、生み出される未来への予感に、感動を覚えるのです。

ヘルマプロディートス的「心理的両性具有」、そこでは融合と分化が絶えず試みられ、固定観念の取っ払われた創造的な世界への道を感じられます。
自分の中ではどうだろうか・・・ヘルマプロディートスを眺めながら、自分自身を眺めてしまいます。自分の中で溶け合っていくもの、今こうして文字を書き込みながら分化されていくもの・・・人は絶えずそれを繰り返しながら生きていくものなんでしょうね。

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