先月、新紙幣が刷新されると発表されましたね。
渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎・・・なんだか、馴染みがありませんね。名前は聞いたことはあるけど。(無知で済みません 汗)まあ、刷新まで5年あるらしいので、それまでに、外国の方に「誰これ?」って聞かれた時ぐらい、スラスラと答えられるように、知識入れておこうと思います。
一方、裏面を見ると、1000円札には、北斎の『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が!
いいですねー。粋な感じがします。
以前、海外のフリーマーケットに参加して、浮世絵の印刷物を販売したことがあります。歌麿、広重、写楽と、色々準備していったのですが、圧倒的に人気があったのは、この北斎の『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』でした。日本では誰もが知っているこの浮世絵、海外でも認知度は高いのですが、私が販売した時は、これを初めて見る人も多くて、それでも、誰もがこの浮世絵を目にすると、印刷物をめくる手が止まるのです。そして、しばらく見入ってしまうのです。
この浮世絵の魅力って何なんでしょう。構図が凄いとか、フィボナッチ数列がどうとか、富士山が何個も隠れているとか、同じ形状の繰り返しとか、青の美しさとか、色々言われていますね。
こちらの赤とんぼさんのブログなど、そういう点、良く分析されて、とても面白いです。
この浮世絵のそういう巧妙さを知ってしまうと、「北斎、すごーい!!!」と叫ばずにはいられません。天才ですね。
技術的な凄さは置いておいて、この浮世絵を見て、何を感じるのか。何を表現しているのか。
感じ方は、人それぞれ違うと思いますが、私はこの浮世絵をじっと見ていると、頭の中で、『老子』の本がペラペラの捲られて、そこに書かれている言葉や感覚が、この絵の世界と絡み合う感じがします。
激しく姿を変え続ける水、それに翻弄されるように船にしがみつく人々、そして、その中央で小さいけれど、決して動かぬ悠久無限の象徴のような富士の姿。
蠢くものが、動かぬものを取り囲む。
船に乗る人には、富士の姿を心に留める余裕はあるのでしょうか?そこにあるのに見えない富士、すなわち「道」の姿。
本気でこの絵を見るということをしていると、そういう老荘思想的な世界観に、吸い込まれそうになります。
「道」の姿は、今は見えないかもしれないけれど、水はうねりとなり、波となり、しぶきとなり、刻々と姿を変え、富士の高嶺にまるで雪のように降り落ちる。もしくは、雲となり千鳥の様に飛び上がり、世界のありようが見えるのかもしれない。
激しさの中にも希望を持ちながら、自分も船に乗る人の一人になってしまうのです。
いつか、しっかりと富士の姿を心に留められるような人間になりたいものです。