前回、シーシュポスの神話の「1章 不条理の論証」をまとめました。
→ こちら シーシュポスの神話 1

カミュのいう不条理とは、「明晰を求める理性と、理性で説明できない世界の差異」から生まれるということでした。

その不条理をごまかすことなく見つめることにより、「反抗」「自由」「熱情」に満ちた生になると言っています。

反抗:理性で説明できない世界を、妥当な原理に当てはめようとすることにあらがうこと
自由:限られた運命の中で、規則にとらわれない精神と行動の自由
熱情:意識的により多くを経験すること

2.不条理な人間

不条理の論証に続いて、「2章 不条理な人間」では、このような不条理に生きる人間の例が、3人挙げられています。
実際の人物ではなく、「反抗」「自由」「熱情」に満ちた象徴的な人物像です。

<一人目:ドン・ファン>
スペインの伝説上の人物です。美男で女たらしで放蕩的な人物として、様々な芸術作品のモデルとなっています。カミュの論説から、「反抗」「自由」「熱情」をドン・ファンに当てはめてまとめると、こんな感じでしょうか。

反抗 :一人の女だけを愛さなくちゃいけない、浮気は悪、という倫理を受け入れない。
自由 :罪悪感を感じない。出会ったタイプの女を迷わず口説く。
熱情 :たくさんの女を、それぞれをたっぷりと愛する。自分の生を楽しむ。

一般的な倫理観しかもたない私など、「最低な男だな」としか思いませんが、ドン・ファンのレベルまでいくと、突き抜けた感じはありますよね。カミュは「愛欲」というキーワードで不条理を体現した人物として、ドン・ファンを挙げています。
カミュは、ドン・ファンの悲惨に思える末路にも言及しています。一般的な倫理観の人々は、「ほーらみろ、ドン・ファンは罰があたった」と思うのですが、彼自身の内面はというと、こう書かれています。
“懲らしめられるのは当然だとかれは思っていよう。・・・それを完全に受け入れたという点にこそ、かれの高邁さがある。しかしまたかれは、自分が間違っていない、懲らしめなど問題になりえないのだということを知っている。運命とは処罰ではないのだ。”
“最後の結末、じっと待ちうけてはいたが、けっして願ったわけではない最後の結末、そんなものは軽蔑しておけばいい。”

<二人目:演劇俳優>
副題は「劇」となっています。演劇は、舞台という「限られた場所」、「限られた時間」の中での創作です。カミュは、そこで様々な生を演じる俳優の不条理性を挙げているのですが、ここでいう俳優の不条理性とは、俳優を生業とする人間が不条理であるというのではなく、「俳優の運命」だと言っています。俳優というものを象徴化して述べています。

反抗 :俳優は自分ひとりの身体にいくつもの生を宿し、自己矛盾の中にいる。
自由 :限られた時間と場所において、何者にもなれる。
熱情 :多くの生を演じることで、多くの生を生きる。

俳優は自分の中に、劇中人物を構成し、一体化し、舞台が終わればその人物から離れていきます。なので、俳優は死というものを前もって感じているのだ、とカミュは言います。
“やがて、舞台とこの現実世界において死なねばならぬときがやってくる。これまで生きてきたものが、かれの眼前にある。・・・いまやかれは死ぬためにはどうすればよいかを知り、そして、死ぬ可能性を獲得したのだ。”
人は必ず死ぬということを意識することが、不条理の認識の一歩であったわけで、それを身体レベルで感じ取っている俳優の運命というものの意味しているがそこにあるわけです。

<3人目:征服者>
征服者とはなんなのか?カミュはこう述べています。
“こんにち征服者というこの語の意味が変わり、もはや征服をなしとげた将軍を意味しなくなっているということは、つまらぬことではない。偉大さはその基盤を変えたのである。いま、偉大さは抗議と未来をもたぬ犠牲との中にある。・・・革命とは人間が運命から自分の権利を回復しようと志すことだ。・・・ぼくは革命の精神を、その歴史的行動のなかにおいてしか捉えることができないし、またそこでぼくは革命の精神と結びつくのである。”
「ドン・ファン」と「俳優」に関して、カミュは「かれ」という3人称を使っていたのに対して、この「征服者」において、「ぼく」という一人称で綴っています。ナチスがパリを占領していた時代、レジスタンスとして活動していた彼自身の中の等身大の「不条理な人間」像なんでしょうか。
「歴史的行動」という言葉を使っていますが、これは、今に刻み付ける行動ということで、観想にとどまらず、身体をもって行動する、ということだと思います。
「社会の力」のなかにある「個人の力」のみじめさ、その中で、自分の限界を知りつつも揺るがぬ魂を持つもの、精神の征服者、別の言葉では「冒険者」とも呼んでいます。
“個人を踏み砕くのは世界だ、そして個人を開放するのはぼくという主体だ。ぼくという主体が、個人にその権利のいっさいをあたえるのだ。”

反抗 :個人を踏み砕く世界。
自由 :自分の限界ある状態をよく知っていることで、精神と行動が自由である。
熱情 :人間のるつぼの中で、人間の精神の偉大さをより多く感じること。

日本語で「負けるが勝ち」なんて言ったりしますが、カミュはこう言っています。
“征服者たちはときに敗北させ、打克つという言葉を口にする。しかしその場合、かれらのこの言葉は、つねに、《自分に打克つ》ということを意味している。・・・自分の力をはっきりと感じ取って、自分が、神に比肩するような高みにたえず生きており、しかもそうした偉大さを完全に意識しながら生きていると確信しているような人びと、-そうした一群の人々が征服者ほかならぬ。”
反抗の末に解決の道が開けぬの分かっていながら、反抗を続け、希望(不条理のない世界)の方へ流れそうになる自分に打克つ、凛とした人間像が見えてきます。

「ドン・ファン」「俳優」「征服者」と、不条理な人間の例として挙げられてきまいしたが、この章の最後でカミュは、最も不条理な人間は「創造者」だと言っています。芸術家のことですね。次の「3章 不条理な創造」に引き継がれるわけですが、主に、芸術の一形態である小説を引き合いに出して創造というものが語られます。

3.不条理な創造

創造するとはどういうことなのか?カミュはこう述べています。
“創造するとは二度生きることだ。・・・だれもが、自分自身の現実を模倣し、反復し、再創造しようと試みる。そして、ぼくらはつねに、結局は、ぼくらにとってのさまざまな真理を、自分の顔とするにいたる。芸術創造とは偉大な物真似なのだ。”

人は不条理を発見する。不条理な人間は、それを明晰に知ろうとする。
不条理な思考の最後の野望は、「記述する」つまり「創造する」こと。
不条理な創造が生まれるのは、明晰に知ろうとする思考が停止した地点だと、カミュは言っています。
“創造は、不条理な情熱がほとばしり出てくる地点、論証が歩みをとめる地点、そういう地点に印づける。”
“不条理な作品は、思考がみずから威信をふるうことを断念し、またみずから、事物の外見を組みあわせる知力、理性的に説明できぬものを形象で覆う知力以上のものではないと諦念するその姿を明示する。もしも世界が明晰なものであるならば、芸術は存在しないであろう。”

不条理の発見 思考 創造 となるわけです。ここで、カミュは、1章の不条理の論証において、多くの思想家を考察したことを持ってきます。理性で説明できない事柄はどうするのかという点において、思想家によって、不条理からの離脱具合が様々でありましたが、これは、芸術作品にも同じことが言えるのか、という疑問を提示します。

そういった検証を行うのに、カミュはドストエフスキーの小説作品を分析するのですが、なぜ小説というものを検討するかというと、小説創造というものは、他の芸術に比べ、説明への誘惑が強いというのです。これはなんとなく分かりますよね。言葉を媒体としている芸術ですからね。言葉は人の理性から生まれてきたようなメディアです。理性で説明できない世界を、この言葉で記述する、結論を出したいという欲求が大きくなることは想像できます。

さて、カミュはドストエフスキーの『悪霊』のなかのキリーロフという登場人物を分析します。自殺をするということを除いて、この人物は、カミュのいう不条理に当てはまる人物ということで、ドストエフスキーについて、カミュはこう評しています。
“おそらく、ドストエフスキーほど、この不条理な世界に、これほど身近かで、これほど苦しみを味わわせる魔力をあたえた小説家は、ただのひとりもいないであろう。”

ところがですね、一方で、ドストエフスキーの最後の作品『カラマーゾフの兄弟』を分析すると、そこにはキリーロフとは真逆の回答が見られるというのです。
“存在は虚妄であり、しかも存在は永遠である。”
不条理が消え去った世界です。ドストエフスキーは上訴の道を選んでいます。

なので、ドストエフスキーの作品は、「不条理な作品(回答をあたえない)」ではなく、「不条理な問題を提起する作品」となります。
このように、不条理からの距離感も、作家によって様々なのでしょうが、読者としては、こういった作品に触れることで、不条理な苦行がいかに難しいのかということが理解できます。
偉大な芸術作品は、人間が幻想を乗り越え、自分の現実に少しでも接近してゆく機会を与えてくれると、カミュは述べています。

人間が苦悩の中で思考を繰り広げていく様子、それは神話の中に集約されているとして、「第4章 シーシュポスの神話」へと続きます。

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