これまでの読書メモ
1章 不条理な論証
2章 不条理な人間、3章 不条理な創造

1章~3章まで、不条理について論理展開されてきましたが、4章では、ギリシャ神話に登場するシーシュポスという人物のなかで、その不条理が繰り広げられ集約される様子が描かれています。

「4章 シーシュポスの神話」は、私の持っている文庫本なら、たった6ページの短い随筆です。
これまで長い不条理の理屈を読んできたわけですが、ここで、カミュは、神話の中に投影された結晶のような不条理の姿を見せてくれます。

4.シーシュポスの神話

“神々がシーシュポスに貸した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。”

このような無益で希望のない労働をシーシュポスが科された原因は、神々に対する軽率な振る舞い、度重なる欺きからだと言われています。
ですが、この過程を読むと、神々の方も、随分と理不尽なんですよね。ユピテル(ゼウス)はひとの娘を誘拐しておいて、それを見かけたシーシュポスが父親に告げ口したことに怒り、シーシュポスを罰します。私的には、なんだったら、シーシュポスの方が正しい、なんて思ってしますよ。見返りに、父親から枯れない泉をもらっているので、良心というより狡猾さからなんでしょうけど、シーシュポスがコリントスの王であったことを思えば、民に水を与えるというのは、彼の責務であったとも思えます。しかし、神々の世界には人間の理屈なんて通用しません。私たちの理性の外にあるわけで、そこに不条理が生まれます。神に対して勝ち目などないと分かっていても反抗を貫くシーシュポス。正に、カミュのいう不条理な人間ですね。

何千回も、何万回も、岩を頂上へ運んでは転がり落ち、下山して、また繰り返す。
カミュは、その様子を、無意味で無関心な宇宙にいながら、そこに意味を求めようとする人間の無駄な探求になぞらえています。
この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからである、とカミュはいいます。
しかしシーシュポスが、明徹な視力をもってみずからの責め苦を凝視するとき、宇宙は沈黙し、そこから不条理の反面である幸福の姿が見えるのです。
岩を運び上げる作業も、人間の中の不条理への意識度によって、精神状態は異なってくるということです。

不条理を認識していない人間 :きっと岩を押し上げられるという希望を持っている。
不条理を発見した人間 :自分の行ってっている作業の無意味さに目覚め、苦悩を感じる。
不条理を自分のものにした人間 :すべてよし、と判断し、幸福を感じる。

“「私は、すべてよし、と判断する」・・・この言葉は、不満足感と無益な苦しみへの志向をともなってこの世界に入り込んでいた神を、そこから追放する。この言葉は運命を人間のなすべきことがらへ、人間たちのあいだで解決されるべきことがらへと変える。”
無益さ、無意味さをひっくるめて、完全に自分のものにしてしまう・・・。不条理な人間がたどり着ける最高の到着点なんでしょう。
人生を自分のものとして生きる力強さを感じます。

カミュは、この随筆をこのように締めくくっています。
“かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後、もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ。”

ここで、1章の初めの方で書かれていた言葉を思い出します。
“終わりにあるのは、不条理な宇宙であり、また、独特の光線を当てて世界を照らし出し、まぎれもない自分が認知した、他に類を見ないような、世界の仮借のない相貌を輝きださせる精神状態である。”
ここにたどり着いたのだなと思います。

すべてよし、と判断できるような精神状態になるのは容易いことではなさそうだけど、先入観や固定観念を取り払って状況を見る努力ならば、自分にもすぐできそうな気がしますね。
以上、アルベール・カミュの『シーシュポス神話』の読書メモでした。
まだまだ読み込みが浅いので、もう少し踏み込んだ一面が見え次第、更新していきます!

カテゴリー: Book