先日、国立新美術館で開催されていた『クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime』という展覧会へ行ってきました。東京展は9月2日まで。もう終わっちゃいますね。10月18日からは長崎で開催されるそうです。

クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime オフィシャルサイト

クリスチャン・ボルタンスキーはフランス出身の現代アーティストです。写真や映像、所有物、照明などを用い、個人や他者の記憶、歴史、存在の痕跡にまつわる作品を制作しています。

なんだかよく分からないながら行ってみたんですが、一気にファンになりました!自分の中では、かなり新しい体験でした。

“体験”、正にその言葉がぴったりなんですよ。鑑賞者はその空間を体験することで、そこから生まれる感覚を経験する、というような展示でした。まずですね、薄暗い入口に「DEPART」という電球の文字が掲げられ、なんだか分からない不気味な音が響いていて、お化け屋敷にでも来てしまったような不安感&ワクワク感。(小部屋で上映されている映像作品の音なんですけどね。)独特の雰囲気です。こうして奥の方へ取り込まれるように、ボルタンスキーの世界に飲み込まれていくわけなんですけど、なんていうか、作品のそれぞれが興味深い小さな要素であって、それがいくつか集まって、一つの集合体となって鑑賞者に意味を与え、さらにそれぞれの集合体が重なり合い、より大きな心的うねりみたいなものとなり、全体で一つの物語となる。ちょっと本を読むような感じです。場面が集まってエピソードができ、エピソードが集まって全体の世界感が出来上がる、みたいな。「ARRIVÈE」という電球の文字の掲げられた出口に辿り着く頃には、自分の中にある物語がすっかり引っ張り出されて体験した、というような感じがしました。

『Lifetime』と名付けられた展覧会。人の人生は多様ですよね。
過去の時間や誰かの人生の情報が積み重なっていく感じ。
それらが、今ここにいる自分にメタデータ的に与えられ、個人の痕跡が消えつつ集合として捉えられる感じ。
そこからピックアップした何かしらが神聖化しアイコンとなっていく感じ。
こうして今見ているものも、プラトンの洞窟の比喩的に、ただの影絵で、実態を把握していない可能性。
死者の声に耳を傾けつつ、どこか遠くの土地で鳴り響く音が混じり、自分の中の固定観念のようなものがゆっくりと溶けていく。
情報の集合の中の歩み、やがて灯りは消え、記憶は来世へ渡り歩いていく。

私が体験したのはそんな物語でしたが、ボルタンスキーの作品は解釈の幅も広そうだから、見る人それぞれが描く物語もかなり様々なんだと思います。

ボルタンスキーの作品には、写真(個人的写真、新聞などの無作為の写真)が沢山使われているのですが、写真の持つ「死」の匂いのようなものが最大限生かされているなと感じました。撮られた瞬間から消えていくもの。ロラン・バルトが『明るい部屋』の中で述べている「かつてそれはあった」という言葉が頭の中に何度も浮かんできました。存在の確実性、今見ているのに遥か彼方のものであるということ、痕跡の破片から、時間というものをいやおうなしに感じさせる刺激が満ち満ちています。

写真の持つこういう感覚に長い時間陥っていると、私など戻ってこれないような恐怖を感じて、自動的に思考や感覚がストップしてしまいがちなんですが、芸術家ってすごいですね。深い所を旅して引っ張って来て、現実の世界に表現する、人の心を写す鏡のような作品を作り出す。

流れゆく時間の中では、なかなか捉えられない感覚を体感できました。
自分の中の世界の捉え方に新しい感覚が注ぎ込まれるような、とても貴重な経験でした。

東京、もう終わっちゃうけど、長崎で行ける方、ぜひ体感してみてください!

カテゴリー: Art