フランスの小説家で哲学者のアルベール・カミュの代表作の一つ、不条理について論理展開する『シーシュポスの神話』。

カミュの独特の言い回しなど、慣れないと読みづらいですが、理解できようと出来まいと、とにかくカッコいい文章が魅力的であり引き込まれます。
私がこの本を初めて読んだのは高校生の時でした。その時、この本の内容をどこまで読み取れたのか詳しくは覚えていませんが、「不条理」という自分の中にもあるもやもやを、はっきりとした言葉で突き付けられ、その輪郭が浮き彫りになり、打ちのめされるような感覚があったのは覚えています。

丁度その頃、『ぼくは勉強ができない』(山田詠美 著)を読みました。男子高校生の主人公、秀美くんが日常的な経験を通して成長していくお話です。
その中に『ぼくの高尚な悩み』というサブタイトルのついた章があります。秀美くんの友人の植草くんが、カミュのこの『シーシュポスの神話』を愛読しており、夕日を見て虚無感に襲われ、”人間って、すごく不条理なものだと感じてるのさ。” なんて、能天気な秀美くんを見下し、高尚な悩みに身を任せています。そんな彼も骨折という肉体の痛みの前では、カミュだの虚無だのどころではなくなるわけですが、その様子が、ユーモアたっぷりに描かれています。
これを読んで、高校生だった私は、自分のことを言われているようで、とても恥ずかしい気持ちになりました。カミュっていいよねなんて、人前で言わないようにしよう・・・なんて心に誓いました 笑。

でも、今、もう少し経験値の上がった自分で『シーシュポスの神話』を読んでみると、植草くんも、その頃の私も、カミュの不条理の論説をちょっとかじってみただけだったんだなって思います。植草くんも私も「不条理の発見」はしたかもしれないけど、カミュはそれは終着点ではなく、出発点だと言っています。
“ぼくの関心の的は不条理の発見ではない。むしろ、そうした発見からもたらされる結果である。”
“終わりにあるのは、不条理な宇宙であり、また、独特の光線を当てて世界を照らし出し、まぎれもない自分が認知した、他に類を見ないような、世界の仮借のない相貌を輝きださせる精神状態である。”
「不条理」という苦悩の向こうにある「幸福」。それはごまかしをせずに情熱的にあるがままを見極める視力であり、カミュの見ている不条理な世界は、非常に生き生きとしたものです。

カミュの小説『ペスト』や『異邦人』などを読めば、『シーシュポスの神話』の不条理の論説ももっと具体性をもって読み取りやすくなるのかなと思いますが、ここで、私なりに読書メモを、簡単なものですが、章ごとに作ってみたいと思います。

1.不条理の論証

まず、カミュのいう不条理とは何なのか。こう書かれています。
“不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がどもに相対峙したままである状況についてなのだ。”

つまりこういうことです。
明晰を求める理性不条理性理性で説明できない世界

例えばこういうことです。
人生が生きるに値するか否か不条理性理性的に言えば価値などない。じゃあ死ぬのか?

よって、この章の冒頭でこう言っています。
“真に重要な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。”

不条理を発見してしまった人間は苦悩します。
不条理が生まれるのは、この二つの事項(明晰を求める理性と、理性で説明できない世界)の差異からだと、カミュは繰り返し説きます。なので、どちらか一方がなくなれば、不条理も消滅します。つまり端的に言ってしまえば、不条理が消えるのはこの二つ場合となります。
・明晰など求めない頭になるか
・世界の方が説明できるようになるのか

さて、カミュ以前、昔から多くの哲学者がこのことを省察してきました。
カミュは、ここで様々な哲学者を引き合いに出すのですが、主に二つの学派のこの問題に対する態度について考察します。

まず、キルケゴールをはじめとする実在主義。
実存主義がどんな哲学か、ここでは触れませんが、実存主義の哲学者は、この不条理な状態の解決する策として、「理性で説明できない」ことは「神の領域」としてしまっている、とカミュは言っています。ここでいう「神」は、必ずしもキリスト教の神というわけではなく、「人間の理性の及ばない領域にある何か」ということでくくれます。
理性で説明できない世界 = 神の領域 = 人間が考える必要のないこと
もう考えなくていいんだから、不条理は消滅します。
でもですね、哲学というのは「考える」もので、カミュはこの状態を「哲学上の自殺」と呼んでいます。また、別の言葉では「希望」、「上訴」、「飛躍」などと言っています。
「希望」と「自殺」という言葉の本来の意味に隔たりを感じますが、人間は全て統一の澄み渡って分かる不条理のない世界に居心地の良さを感じるものであるので、「哲学上の自殺」により生まれる統一された疑問のない世界へ「希望」をみるということになります。

次にフッサールの現象学。
世界を説明するのではなく、現実経験の記述にとどまる現象学は、カミュいわく、一見したところ、不条理な精神に反するものではないのですが、人間の理性の総合能力を否定したあとで、永遠の普遍理性の中へ飛躍があり、具体的なものそれ自体を普遍化しようとするのは乱暴な主知主義だということです。やっぱりフッサールも抽象的な神を持っていると。

そして、カミュは、このように論証を続けます。
“キルケゴールはぼくの郷愁を抹殺し、フッサールは四散した宇宙をもとの形に集め直す。だが、ぼくの期待していたのはそれではない。こういう分裂とともに生き、ともに思考すること、受容すべきか拒否すべきかを知ることだった。不条理の平衡関係式の一方の項を否定することによって不条理を抹殺する、そんなことは問題になりえない。”

そうして彼は、ごまかしをしないで、不条理をあるがままを見つめるのです。
“不条理は対立を糧とするものであり、対立の一方の項を否定することは、不条理から逃げ出すことだ。・・・生きるとは不条理を生かすことだ。不条理を生かすとは、なによりもまず不条理を見つめることだ。”

でもですね、不条理に対する認識が低い段階では、その状態はつらいので、人はやっぱりごまかしたりしようとしがちです。神様だとか理念だとか抽象的なものは都合がいいのです。カミュはそういった誘惑に意識的に「反抗」をつらぬくのだ、と言っています。
“意識的でありつづけ、反抗をつらぬく、― こうした拒否は自己放棄とは正反対のものだ。人間の心のなかの不撓不屈で情熱的なもののすべてが、拒否をかきたてて人生に刃向かわせるのだ。重要なのは和解することなく死ぬことであり、すすんで死ぬことではない。自殺とは認識の不足である。・・・不条理な人間は反抗をつらぬくことで、挑戦という自分の唯一の真実を明かしているのだということを、知っているのだから。”
ここでカミュは冒頭の問いに一つの答えをだしています。自殺(ここでは哲学上でなく実際の自殺)についてです。
自殺はそれなりに不条理の解決にはなるけれど、それは妥協であり、認識不足だといっているのです。

こうした反抗をつらぬいた結果、どうなるか。不条理な人間は精神と行動の自由を獲得します。
“不条理は永遠の自由を得るためのいっさいの機会を滅ぼしてしまうが、逆にまたそれは行動の自由をぼくにかえしてくれる。不条理のために希望と未来とを剥奪されるということが、人間の自由な行動の可能性の増大を意味するのだ。”
これはどういうことでしょう。カミュは、不条理の存在をごまかしている人間と、不条理を意識している人間、この2種類の人間を対比させて、それぞれの自由の概念を述べています。

不条理をごまかしている人間 → 理性で説明できぬことは神の領域 → 永遠なる統一された世界で解放され、その中で自由であるかのように振る舞う → しかし、自分で設けた柵に押し込められている
不条理を意識している人間 → 自分を縛る法則はない。人生に意義も認めない → 精神、行動の自由を獲得

この2種類の自由を比較後、カミュは、不条理な人間の自由をこうまとめています。
“死と不条理とが、妥当な唯一の自由の、つまり人間の精神が経験し生きることのできる自由の原理となるのだ。”
つまり、不条理を意識することで、私たちを束縛している法則が取り払われ、死によってもたらされる有限の時間を意識することで、限度のある自由を生きることができるということです。

このような生は何を意味するのか?カミュは、「汲む」という言葉を使かいます。
“不条理な人間のなしうることは、いっさいを汲みつくし、そして自己を汲みつくす、ただそれだけだ。”
これは「今」を生きる「熱情」です。不条理な人間は死による有限の時間を意識しているので、今、ここの確実なものの中に生きています。精神と行動の自由と意識的反抗をもって、あたえられた一切を経験しつくす、その生は熱情なのです。

この「汲む」という行動に関して、カミュは、人間の価値システムについて言及しています。
“ひとりの人間の道徳、一連の価値システムは、その人間が集めることが許された経験の量と多様性によってしか意味をもたない。”
それはそうですよね。赤ちゃんは人のものを取ったらいけない、なんてことは知りませんが、成長するにつれ、お母さんに怒られるとか、友達に嫌われて人間関係がうまくいかなくなるとか、そういった経験を通して、人のものはとってはいけない、という道徳が身についてきます。つまり、私たちを規制する価値システムは、私たちの経験の量によって、変わっていくといえます。
より多くを経験すること、自分の中で新たな価値システムが作られていくこと、それが何を意味するのか。
ここで矛盾が生まれます。不条理な人間は、「意識的反抗」によって、自分を束縛する価値システムを拒否しようとします。しかし、非常に意識的で曇りのない目で現実を見つめているので、新たな価値システムを作る材料となる経験が、ぼんやりしている人間より多く汲みとられるのです。そしてまた「反抗」を繰り返す。「反抗」するためにさらに多くを自分の生を「熱情」的に汲もうとする。
「不条理」が生まれては消え、消えては生まれ、さらにそれ自体が矛盾に満ちた「不条理な生」ですね。カミュは「不条理な生」をこのように言っています。
“自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能なかぎり多量に感じとる、これが生きるということ、しかも可能なかぎり多くを生きるということだ。”

そして論証の最後にこう言っています。
以上ぼくは不条理から、ぼくの反抗、ぼくの自由、ぼくの熱情という三つの帰結を抽き出した。意識を活動させる、ただこれだけによって、ぼくは、はじめは死への誘いであったものを生の準則に変える、-そうしてぼくは自殺を拒否する。

長くなりましたー。この1章に、ほぼ核心がつまっているのですが、続きは次回。
2章 不条理な人間、3章 不条理な創造
4章 シーシュポスの神話

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